
こんな人に観てほしい:「長尺」の2文字で身構えてしまうあなたへ

正直に聞きます。
長尺VRの後半を、ちゃんと観たことはありますか?
157分。この数字を見た瞬間、あなたの脳はもう計算を始めている。「前半はいいとして、後半は流すか」「途中で飽きたらチャプター飛ばせばいい」。その保険をかけてから再生ボタンを押す。もう何十本と同じ経験をしてきたからです。長尺の後半は密度が落ちる。これは経験則であり、ほぼ法則です。
でもそれ、本当に長さの問題ですか?
私はそうじゃないと思っています。飽きるのは長いからじゃない。同じだからです。場所が同じ、空気が同じ、関係性が同じ。脳が「もう知っている」と判断した瞬間、集中力は死ぬ。短い作品でも死ぬときは死ぬし、長い作品でも生き続けるときは生き続ける。問題は尺じゃない。構造です。
この作品は、その構造に対して明確な設計図を持っています。最後まで観終えた自分に驚く、そういう類の体験です。
あらすじ:女子アナの「オフ」は、なぜ刺さるのか

PREMIUM専属・三好佑香のVRデビュー作。監督はジーニアス膝。設定は「元地方局アナウンサーの彼女と同棲している日常」。
「女子アナ」という肩書きの威力について、少し考えてみてください。
私たちはテレビの中の女子アナに、ある種の完璧さを見ています。正しい敬語、正しい姿勢、正しい笑顔。訓練された完璧さ。それは美しいけれど、距離がある。「きれいだな」で完結する距離です。
この作品がやっているのは、その距離を内側から壊すことです。帰宅して、くつろいで、タメ口で話しかけてくる。あなただけが知っているオフの顔。完璧な人間の不完全な瞬間を見ることの快感――これは覗き見の興奮とは違います。「許されている」という安心感です。あなたにだけ開かれた扉がある。
4つのチャプターで、彼女は4回姿を変えます。でも重要なのは衣装の変化じゃない。あなたとの距離の変化です。最初はソファで雑誌を見せてくる他愛ないじゃれ合い。そこから少しずつ、少しずつ、日常と行為の境界線がぼやけていく。気づいたら越えている。そして場所が変わるたびに、その境界線が引き直される。引き直されるから、また越える快感がある。
全11件のレビューが全員星5。これは珍しい。何より印象的だったのは、あるレビュワーが書いた一言。「いちゃらぶシーンって飛ばしがちになっちゃうけど、思わず見入ってしまう」。飛ばさせない日常パートを作れるということは、この作品が行為だけで勝負していない証拠です。
見どころ1:「慣れ」という名の最強の媚薬

「同棲モノ」のVR作品は山ほどあります。でもその大半は、同棲の何が良いのかを分かっていない。
いきなり甘い声で起こしてくれる。いきなり裸エプロンで待っている。それは同棲じゃなくて、同棲のハイライト集です。おいしいところだけつまみ食いしているから、かえって嘘くさくなる。
この作品が決定的に違うのは、「慣れ」をちゃんと描いているところです。
帰ってきて、ソファの近くにぺたんと座って、雑誌を開いて「ねえ、これ見て」と言う。指を絡ませて笑う。この「何でもない時間」を省略せずに描く勇気。ここに尺を使うという判断。監督のジーニアス膝という人は、この「何でもない時間」が後の行為の体感温度を何度上げるか、正確に計算しています。
なぜか。人は「慣れた相手」にしか見せない顔があるからです。初対面の緊張した笑顔と、一緒に暮らしている人の前での無防備な笑顔は、同じ笑顔でも意味がまるで違う。その無防備さがエロいんです。テクニックでもシチュエーションでもない。あなたを「安全な場所」として信頼している人間の、ガードが下がった柔らかさ。それを直視できる距離に、あなたは座っている。
そしてその「慣れ」が積み上がったところで、場所が変わる。空気が入れ替わる。でも関係性はリセットされない。日常の中で積み上げた信頼の上に、新しい刺激が載る。これが長尺をもたせる設計の正体です。リセットではなく、積み重ね。帰宅から風呂、部屋着のくつろぎ、そして夜へ。すべてに文脈があるから、どこを切っても「唐突」がない。日常の地続きとして行為がある。その地続き感が、脳を最後まで騙し続ける。
見どころ2:「うふふ」が教えてくれること

三好佑香という女優を語るとき、避けて通れない音があります。
「うふふ」。
複数のレビューが、わざわざこの音を書き残しています。含み笑い。口を閉じたまま、鼻から漏れる笑い声。これが全編に散りばめられている。
なぜこの音がそんなに引っかかるのか。
喘ぎ声は「感じている」ことを教えてくれます。甘い声は「好き」を教えてくれます。でも「うふふ」は違う。あれは楽しんでいる音なんです。気持ちいいでも、好きでもなく、「今この瞬間が楽しい」という感情の音。
これ、意図的に出せる音じゃないんですよ。演技で出したら嘘くさくなる。でもアナウンサーという職業は、声をコントロールする訓練を積んでいる。コントロールできる人間が、コントロールを手放しかけている瞬間に漏れる音。それが「うふふ」の正体だと私は思っています。制御と脱力の境界線上にある音。
この音を聞くとき、あなたの中で何が起きているか。「楽しませている」のではなく「楽しんでいる」と感じる。自分が相手を喜ばせている、という錯覚が生まれる。これは途方もなく強い体験です。与えられる快感じゃなくて、与えている実感。エロさの質がまるで違うんです。
あるレビュワーが書いていました。「顔だけでも抜けるクオリティー」と。乱暴な褒め言葉ですけど、本質を突いている。この女優の顔には情報量がある。完璧に整った造形の中で、微細な感情が次々と表面に浮かんでは消えていく。見つめ合いのSEXで真価を発揮するタイプの顔です。VRの至近距離でその表情の変化を受け止め続けるとき、あなたの中に生まれるのは「見ている」感覚ではない。「見つめ合っている」感覚です。
最後に:帰る場所があるということ

この作品を観終わったとき、余韻として残るのは興奮ではありませんでした。
なんだろう、うまく言えないんですけど、「帰りたい」に近い感覚。どこかに帰りたいんじゃなくて、誰かのところに帰りたい。帰ったら「おかえり」と言ってくれる人がいる場所に、帰りたい。
全体のうち、行為以外の時間がかなりの割合を占めています。雑誌を一緒に見る。手を繋ぐ。お風呂で背中を洗う。ストレッチを手伝う。この作品が私たちに売っているのは、SEXではなく生活です。誰かと暮らすということの、しみじみとした良さ。
三好佑香という人の凄みは、この「生活」の説得力にある。「前世でどんな徳を積めば、こんな生活が待っているのか」というレビューがありました。笑い話のように聞こえるけれど、ここには切実な羨望がある。
VRデビュー作にして全レビュー満点。この数字が意味するのは、単にエロかったということではないはずです。観た人の中に、何かが残った。SEXの記憶ではなく、生活の記憶として。
あなたが今夜ゴーグルを被ったら、観終わる頃には彼女の「おかえり」が脳に住みついている。それは消えません。消したくもなくなる。
帰る場所がほしくなったら、再生ボタンを押してください。三好佑香が、ソファの近くで待っています。
